月影の子と陽日の子

 暑いとか寒いとか、ここに来てからは一度も考えたことがなかったけれど、その日はびっくりするくらい雲ひとつない天気で。真っ白に煌く光が窓から差し込んで、僕は「暑いなあ」と感じていた。四度目ともなるとずいぶん余裕ができるようだった。と、苦しみが終わったから思いついたのかもしれないけれど。とにかく四度目だ。なんでか知らないけれど、僕はこの大事業を過去に三回も行った。不思議な事である。
 だがその余裕は霧散した。
「おめでとうございます」
 この一大事業に取り組んだ女たちが口々に言った。そして新しいソレを、僕に、手渡した。
 新しい存在にふさわしい柔らかさの布地で包まれていた。最もその布地は子供の頃なら想像すらできなかったであろうほどの鮮やかで複雑な美しさも兼ね備えている。
 “彼”に見せるのか、と、僕は思った。
 逃げ出すかな?
 好奇心と、許さないよと、そうなるんじゃないかなという諦めと。
 彼にそっくりな赤子の額には僕の額と全く同じモノがあった。

 どんな美しい出会いを用意するべきか。
 それは僕と彼の別れになる可能性もあるのだから、いっそ結婚式のように盛大に行いたい。
「服を整えたいんだけれども」
 侍女のうちの一人が湯を整え、新しい服を着付ける。
 まったくここ十年ですっかり慣れてしまった言葉遣いでは僕の機微が伝わらない。盛大にしたい、と言葉を続ければ髪に櫛が入れられ、ゆるく柔らかに編み込まれていく。慈愛に満ちた神のように、ただ優しい雰囲気に仕上げられていく。
「違うんだけどなあ」
 部屋を出ていく侍女にこっそりと一人ひとりごちれば、代わりにやってきた、件の人物が眉を顰めた。
「何を言ってるのだ、お前は」
 難しい顔に、少しだけ頬を赤く染めて。ずいぶんと見慣れた彼の照れ顔は悪く無い。
「ナニを言ってるんだろうね」
 過去の経験を鑑みるに、たぶん彼は僕よりひどい一年を過ごした。何でもないように振る舞いながら、それが口さがない貴族たちの疑惑を生み出しながら、彼は産みのつながりにひどく苦しんでいた。
 やっと開放され、彼の体調も良くなるはずだった。
「やっと生まれて感慨深いのは良いが、いつまでも自分で抱きかかえてないで、そろそろこちらにも渡してほしいのだが」
「……うん。君の子だからね」
「何だその言い回しは。改めて念を押されなくても分かっている。どう考えても私の子であろう」
「作った覚えあるもんね」
「なっ……違……そう言うことを言うのではない。長時間の疲労で頭がおかしくなったのではないのか。いや、お前は昔からこういうやつだったな」
「あげる」
「………………!」
 手渡された瞬間、彼は息を呑んだ。隠すことすらできない。表情が固まる。無意識、といった感じに額に指を伸ばしたが、触れることはない。ただただ見つめていた。
 僕はそんな彼を同じように身じろぎせずに見守った。

 貴族の宣言、神殿への采配……形式的な事はすべて王配である彼が行った。彼は結婚してから国政に関わり続け中心に座りきった。事務的な事は王座でふんぞり返るだけの僕なんかよりずっとずっとできる。よく考えると生まれてからずっと王子様をやってきたので社交も、儀式も、なんでも僕よりできる。
 働き者だ。
 そのせいで彼は人生に影を落とした事象についてゆっくり向かい合うこともできずに仕事に忙殺されている。
 やっと開放された時、数日が経っていた。
 朱色の光指す部屋の中に僕とやたら難しい顔をした彼と安らかに眠る赤子。そして三人の子供たち。産後の王を気遣った城の人間たちが子どもたちを引き離していて、今日やっと開放されたのだ。なので、三人が新しい弟に会うのははじめて。だけれど「かわいいかわいいと」興味深げに突っついていたのは少しの間だけで、父親の不安が移ったのかまだ三つでしかない子まで押し黙ってしまった。
 この子達は印持ちの母から生まれて印の持たない立場は彼と同じなのだなあと気がついた。
 いっぱい産んでおいてよかったなあ。
 彼らはその絶望に一人で立ち向かわずに済む。
「ねえ、母さんに歌うたってよ。お祝いの歌。歌える?」
 手近に居た子供を膝に乗せて、残りの子は順番にほっぺを揉み込む。くすぐったそうに頬を染めてちょろちょろし始める。
「うんうん、子供はそうではなくては」
 それに僕は君たちのその父に似てほっぺが赤くなりやすい所が好きなんだ。だから君たちが成人の儀式で性別を選ぶ瞬間まで絶対手放さないからね。

 暗がりの中、薄めを開ける。寝台に他の人間の存在はない。広く使えるのはとても良い、ということにしておく。腹が軽くなりやっと寝返りが打てるのだから。
 産まれたばかりの子は取られ、別室の寝台で眠いっているだろう。王様の子供ともなると、生まれた瞬間から専任の世話人が、一人二人三人といっぱい付く。親は特に何もしなくても快適に育てられていくのだ。更に上の子達の時は教育熱心な父親のおかげでより一層母親の仕事が無かった。
 でも、“最後の子”は僕がいろいろ教えることになるのかな。
「起きたのか」
 声が聞こえる。これは窓の方だ。
「……いいか、私は逃げ出すぞ」
 十年前の再現を聞いているかのようだった。
「そうだね、知ってる」
「お前を連れて、とかそういう期待をしてるかもしれないがそんなことは起きない。仕事は投げ出す。王配として王族としての務めなどしらん」
「うん」
「……子供なんて物は全部まとめて置いていくからな」
「後は?」
「…………ソレだけだ」
 はあ、と彼の皮肉げな口から大きなため息が落ちた。所在なさ気な手が額へと向かう。 「お前は言うことはないのか? 大仕事したんだぞ? 普通こういう場合の母親というものは父親にぐちぐち言い募りたいことの一つや二つ持っているものだろう。小うるさい事が好きというわけではないが、今くらいは聞いてやらんこともないぞ」
 そういうものなのかな、とちょっと考える。母と言うものはどういう物だったか。僕の母はただの一度も父のことを話さなかった。うん、全く少しもわからない。ただ、
「思うに、さ」
 僕はとうとう起き上がった。彼は窓辺に置かれた椅子に座っている。昼の暑さがすっかり落ち着いて冷えた石床を裸足で彼の元へのそのそと向かった。
「キミは十分やり遂げたんじゃないか?」
「何だそれは」
 ううーん、と僕は言葉を思い出す。
「キミに求められている一番のことってランテの、印の血筋だろう? それをとうとう達成したんだよ。めでたいじゃない?」
「…………」
「キミが母を目指したように、僕にも母がいる。僕の母は一人で僕を育てきってそして死んだ。だから僕はそれを成し遂げるだけ」
 僕の母の事は彼に話したことがある。彼はとてもおしゃべりで、何かと僕の昔話を聞いてくれた。その割に自分の事はなかなか喋ってくれなかったけれど。ずっと側で僕を理解しようとしていたと分かっている。
「キミは十年もここで僕の野望を手助けしてくれたんだよ? 逃げ出してくれても構わない」
「…………ああ」
 彼が立ち上がる。
「あ、寝る? だったらさもう一枚掛け布増やしていい? なんだか寒くって。なんなら君の大事な布でもいいよ」
「おい、話を聞いていなかったのか」
「聞いてたよ。それで今夜のおしゃべりはおしまい。そうだ、君が全裸になって、暖房になるのはどうだろう?」
「いいか、私は逃げる、と言ったのだ。そしてお前は逃げ出しても構わないと言ったのだ。なのになぜ今夜私がお前と一緒に眠る話になるのだ。もう一度やり取りを、詳細な説明付きでしろというのか」
「うんうん、聞いてたよ。今度の子供は流石に僕も教育に関わらないとだめだよね。あんまり得意じゃないけれど、リリアノ陛下にしてもらった分次に回さないといけないし。それくらいは分かってるよ」
「全く聞いてはないか!!」
 ごん、と何かが、というか彼の腕が壁にぶち当たった音がした。興奮している。僕のせいだけれど。
 だけれどこっちにも理解があるんだよ。一緒におしゃべりしてたんだから、理解が進んだのは僕もまた同じ、と思うんだ。
「君は十年もこんな馬鹿馬鹿しい場所でもったんだから、キミはきっと後十年もつよ」  彼が息を飲む。そしてみるみるうちに赤く――なったところは見られないけれど多分そういう顔をした。
 彼は逃げない。父親と違う。
 まあそれと、逃げてくれても構わない、それだけの事をしてくれたという感謝。そういう約束だし。でも、不思議に彼が王宮から逃げ出す姿が想像しづらいんだ。
「まあ、そうなのかもしれんな」
 ずかずかと布団をめくり、着衣をした彼が隣に寝転んだ。僕はその体温を求めてくっつきに行く。
「あ、でもひとつ欲しいものがあったんだ。記念にちょうだいよ」
「なんだ?」
「愛の詩」
「はあ!?」
「昨日の夜、キミがナニを書いてたかはどうでもいいのだけれども、十年も一緒に居た、清く、美しく、気高い王に愛の詩を三つや四つ、くれてもいいと思わないかい?」 「さり気なく増やすな。一つと言ってただろう」
「これは僕が頑張った回数だから。ただ適当に言ってるわけじゃないんだよ。キミの子を産んだ回数分頑張ってみせてよ」
 どんなに産みのつながりが苦しかろうと、母親の方は命を賭け代として払ってるんだ。 「ああ、ああ……そうなのか……いや、だがまて。お前が気高い? 美しいはまあ、見目だけで王になった人間だからそれは良いとしても、清いもおかしいだろう」
「そんな……僕はこんなに美しくて、信仰厚くて、おしゃべりが上手で、おまけに剣の腕も旦那より高いのに……」
「もういい! 寝ろ! 私は寝る! 朝になるまで起こすな」
「はあい。おやすみなさーい、タナッセ」
 窓の外がほんのり白んでいるのは指摘しないで、僕は目を閉じた。